昭和45年8月6日 夜の御理解

 「信心のない子との違いがわかるほどの信心を頂け。」



本当にこの、おかげを受けていく人。おー、受けていかない人。うー、というの、その開きと、例えば、教祖様は、その信心のある者とない者は、親のある子と、ない子ほど違うと仰るが、なー、ほんとにあの、信心を身に付けていく者の生涯。えー、でないものの生涯というものは、もう、確かに、親のある子と、ない子との違いがね、あることをはっきり分かれるだけのおかげを受けれる信心を頂かなければ駄目だと。ね。今、私、熊谷さんの、お届けをさせてもろうて、聞かせて貰って、ご親戚の方の、それこそ、もう、大変な、贅沢な中に生活された、お婆さんところへ、今日は、お見舞い方々行かれてから、良い話を聞かれてからですたいね。人の生涯というものが、本当に、信心のあると、ないとで、このように違うものだろうかと。なるほど、今、貧乏してられるという訳じゃないけれどね。その、し、し、精神的呵責というか、難儀というかね、様々な問題が、もう、この年になられてから、こんな問題をまあだ、沢山持っておられるということがね。それに引き換え、私のおかげ受けておるということですね。熊谷さん自身がおかげを受けておられることを、改めて、お礼を、ま、言うておられますが。信心の有る者と、ないものは、親のある子とない子ほどの違いをね。はっきり、感じれれるだけの、信心を頂かなければ、信心いただく値打ちはなか。そこで、信心いただくと言うてもです。ほんなら、おかげを頂く人、頂かない人との開きというものは、ほんな、ちょっとした事が違うだけですよ。だから、そこんところを、精進するかしないかという事です。私は、今朝から、あの、善導寺の久保山さんの、お届けを聞かせて頂いたんですけど。夕べ、壮年部会に、一緒にお付き合いをしておられましたから、夕べ、遅くなりましたからね、もう、一時ぐらいだったんです。原さんもご一緒でした。それに、あのう、帰りの車をあのう、石井清さんの車に便乗させて頂いたって言われるんですね。あ、皆さんもご承知のように、もう、それこそ、まあ、変人といわれる人ほど、この、神様のことを、行じ抜いていく人なんですよね。この、石井さんという人は。ですが、あの、おー、善導寺まで来ましたからね。あれから、ご承知のように、ええー、久保山さんところは、大分、こう、北のほうへ入らなきゃなりません。それで、もう、遅くもあるしですね。もう、勿論乗るときから、あの、善導寺のあそこの、おー、三叉路、いや、十字路のところで、あそこまでという事で、乗せてもらいなさったんだから、ここで降ろして下さいと言うたけど、いいや、お送りしますち言うて、まあ、こう言うた。なるほどね、通りがかりのもんでも、そこ、あの、ただ、通り行くとこまでなら、誰でも乗せますからねえ。ここまでなら、だから当たり前なんですよ。そしたら、清さんが言うことが素晴らしいじゃないですか。ね。久保山さん、これからが、私がおかげ頂くところだからと言うたち。(はっはは)ちょいと素晴らしいでしょうが。ね。貴方じゃない。これからは、私がおかげ頂くところだっち言うわけなんです。もう、一事が万事この人は、こういう生き方をする人なんですよ。ほんと。あー、ですからね。ま、信心すると、親のある子とない子との違いということが、なら、久保山さん、そ、久保山さんのお届けの中からです。確かに、そげなふうに違うてくる程しのおかげをね。もう、日々感じられるほどしの信心を頂いていかなきゃ駄目だという事。で、その信心をいただいていくということはね。すこうしは違わにゃいかん。いわゆる、人が人偏なら、私は行人偏。ちょっとこう、上にこう、つくだけのこと。ね。えー、今朝から、ええー、朝の御祈念の中に、善導寺の原さんが、御心願に頂いておられるのが、菊の花と、かんなというはながあるでしょう。あれを、こう、頂かれたという。どういう事だろうか。まあ、菊の花は、合楽の信心とまあ、合楽のシンボルのように言われておる花ですけれども、かんなとは、どういう花でしょうかと、事だろうかということでした。それはね。合楽的修行だということ。ね。ただ、どこどこの信心と同じであってはならないと。合楽的信心。あの、かんなというのはね、やはり、真夏の、炎天に咲く花ですが、かんなということはね、例えば、合楽の場合。あの、身にかんなを掛ける程しの信心と仰る。だから、問題があるという。今朝方の御理解の延長になりますとね。ほんなら、問題があって、それが、難儀を感ずるならですね。それは、元がこちらに有るのだから、そこんところがね、削ってとられるところまで、改まって行けというのが、合楽的信心修行なんです。かんなの花は。だから、菊の花は、自分の心の中にね。なら、熊谷さんが、あー、頂いておられる御教えの中にね。私が、短冊に書いて差し上げとる。ね。「どれほどか、お手間かかりし菊の花」というのである。ね。ここまでの菊の花を咲かせる為には、どれほどか、神様のお手間を掛けておる事であろうかと、言う信心なんです。そん為には、磨きに磨き、言うならば、それこそ、身にかんなを掛けるような思いでね。改まってきた。ね。そういう、私は信心からね。信心の有る者とない者の違いを。親のある子とない子ほどの違いを感じられるようなおかげになってくる。それは、ほんの、ちょっとした事だと。信心の、同じ信心を頂いておりましても、ね。おかげを受けていく人。お徳を受けていく人はね。どこかちょっと違う。ね。それが、ただ、どうでしょうかね。それは、まあ、乗せたが最後、ご信者さん同士ですから、あそこまで、送って行くとは、誰だって送っては行くとです。誰だって送っていくです。けれども、まあ、迷惑なもんと思いはせんでもね。ま、それこら先のことは、大して思わんです。ね。けれどもね、そこんとこを、清さんはね、これからは、私がおかげを頂くとこだと思い込んでるです。そこが素晴らしい。もう、久保山さんのためじゃない。自分のためにしよるです。ね。私は、もう、その一言を、今日聞かせて頂いてね。なるほど、さすがにおかげを受ける人は違うと思いましたよ。ね。どうぞ、そこんところをね。私は、お互いの信心が、あー、普通の人と、同じような考え方やら、生き方で信心したって、駄目だと。少しは違わなければ。しかも、少し、面倒であるとか、難儀であるというとこはね、そこからがですね、そこからが、私がおかげ受けていくとこだというような頂き方したら、もう、スッキリしたもんですね。自分自身も有難い。ね。もう、こん、遅うに、あそこまで送らやんとが面倒くさいといったようなものは、全然、更々ない。よし、送っていってもです。ただ、口に言わんだけで、心には、なにか、そういうものがあったんでは、何にもならんけども、私のために、そこまで送る、いくんだから、これから先は。という信心を身に付けて行きたいと思うね。どうぞ。